どうして私はこの疑問を持ったのか
クリスチャンとして生きていると、
自分は本当にクリスチャンと言えるのだろうか、
昔と全然変わっていないのではないか、
もっと頑張って「良いクリスチャン」を目指さなければいけないのではないか、
そんなことを考える時があります。
しかし自分で変わろうとすることにはどこか無理があると感じるようになりました。それは私たちは皆、生まれながらに罪の性質を持っており、クリスチャンになった後も、それ自体が消えてなくなるわけではないからです。
キリスト教の人間観は性悪説に立っています。(罪の性質を持つ存在)
自分で100パーセント清い生き方はできないことは分かる、しかし罪から離れて生活したくてもなかなか抜けれない。それを神様に祈ってもなかなか変わっていない自分の繰り返しをしているように感じるからです。私は果たして神様の願っている道を歩いているのかを疑ってしまいます。
ここで考える神様の言葉
ここでわたしは罪から離れた生活をするために、清く生きるために聖書が何を語っているかを考えました。
ピリピ人への手紙2章13節
> 神である方が、御心のままに、
> あなたがたのうちに働いて、
> 志を立てさせ、事を行わせてくださるのです。
(新改訳)
ここで書かれているのは神が「あなたがたのうちに」働かれるということです。外側からの来るものではなく私たちの内側で起こる働きだということです。
自発的に変わりたいという気持ちを神様が与えてくださるのだと理解しました。
自分が変わりたい、変わろうと感じているのは神様が与えてくださる意思なのだと思いました。
そして最後には事を行わせてくださると書いてあります。これは自分自身ではできないことも神様ができるように助けてくださると思います。
私の人生を振り返るとクリスチャンになって11年が経ちますが未だにいろいろな問題を抱えています。 しかしいろいろな問題を詳しく見てみると着実に変化しているように感じます。
具体的には今までの罪が楽しく感じにくくなっている。
罪がもたらす結果、結末を考えると冷静になれるなど。
私の場合はあまり早い変化には見えませんしかし少しずつ着実に変えられていると感じました。その裏には神様の働きがあるように思います。
自分を誰かと比べたり、数か月前の自分と比べるとなかなか納得できないかもしれませんしかしすこし大きい時間軸で見ると確実に変えられていると思うのです。
自分でやろうとしていたら大変なストレスになっていたと思います。
すぐに理想の姿になれなくても、
変わりたいと願う心が与えられているなら、
それ自体が神様の働きなのだと思います。
私はこれからも、自分の力ではなく、
私のうちに働いてくださる神様に信頼して、
歩んでいきたいと思います。


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